東京都平和祈念館 「凍結」の経緯

1945年3月10日 東京大空襲
*1942年4月18日~1945年8月15日 東京都内で約100回の空襲

1951年9月 横網町公園旧震災記念堂に空襲死者遺骨を合葬し慰霊法要を開催、「東京都慰霊堂」と名称変更


1970年8月 東京空襲を記録する会設立、『東京大空襲・戦災誌』全5巻刊行(1973-74)

1973年11月 東京空襲を記録する会、アメリカ押収資料の返還・公開を要求する会、空襲・戦災を記録する会全国連絡会議が連名で美濃部亮吉都知事に空襲・戦災資料を保存する資料館建設を要請

1979年2月 都知事選挙を前に12人の文化人が候補者に「空襲・戦災記念館」(仮称)を東京に設置することでの公開要請書を提出
*当選した鈴木俊一都知事は「双手をあげて賛成」と回答

1985年3月 再び許すな東京大空襲!実行委員会より東京都・都知事に「平和祈念館(仮称)」の建設を要請


1990年7月 東京都平和の日条例制定

1991年10月 東京都平和の日記念行事企画検討委員会設立

1992年1月 同委員が一致して「犠牲者を慰霊するとともに平和の大切さを内外に訴える、モニュメンタルな平和記念館のような施設」の建設を都知事に提言

1992年6月 東京都平和記念館基本構想懇談会設立

1993年6月 『東京都平和記念館基本構想懇談会報告』を都知事に提出

1994年5月 『東京都平和祈念館(仮称)基本計画』を策定

1995年3月 東京都民平和アピールを表明

1996年5月 東京都平和祈念館(仮称)建設委員会設立

1996年6月 第2回 建設委員会、建設予定地を「中央区佃の大川端」から「横網町公園」における復興記念館との合築案に変更

*1996年度~ 証言記録調査・映像制作を開始

1997年12月 都議会文教委員会で「平和祈念館問題」を集中審議

*1997年度~ 資料受入を開始

1998年3月 「平和祈念館の建設に当たっては、展示内容等について、都議会の合意を得た上で実施すること」と付帯決議を付けて、都議会で予算成立

1998年4月 都議会文教委員会で「平和祈念館問題」を集中審議(第2回)

1998年7月 『東京都平和祈念館(仮称)建設委員会報告』を都知事に提出

1998年7月 都議会文教委員会で「平和祈念館問題」を集中審議(第3回)

1999年3月 「平和祈念館の建設に当たっては、都の厳しい財政事情と従来の経過を十分踏まえ、展示内容のうち、いまだ議論の不十分な事実については、今後さらに検討を加え、都議会の合意を得た上で実施すること」など3項目の付帯決議を付けて、都議会で予算成立

1999年8月 石原慎太郎都知事が次年度予算計上を見送る方針、建設計画の「凍結」


参考文献
山本唯人「ポスト冷戦における東京大空襲と「記憶」の空間をめぐる政治」『歴史学研究』第872号, 2010年, p.122-131.
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東京都平和祈念館アーカイブズ Tokyo Peace Museum Archives

東京都平和祈念館アーカイブズ Tokyo Peace Museum Archives

5月1日、原爆の図丸木美術館で展示「特別企画 藤井光 爆撃の記録」が始まりました。 「爆撃の記録」は、1999年に計画を「凍結」された東京大空襲の博物館「東京都平和祈念館」を題材に、記憶を受け継ぐことの困難と可能性を問いかける作品です。本サイトでは、作品の背景である「東京都平和祈念館」に関する資料と、作品をめぐる反応を、会期中限定でアップします。 写真:旧江戸湊から佃、隅田川河口方面を見る