「爆撃の記録」の印象、東京都平和祈念館に思う
2016年、キセイノセイキ展で「爆撃の記録」を見た東京大空襲の遺族、大竹正春さんに「爆撃の記録」の印象、東京都平和祈念館に思うというテーマで、文章を寄せてもらいました。
[寄稿]
「平和憲法を守り、戦爭につながることには立ち止まって皆でよく考えましょう」
大竹正春
1931年、城東区(現江東区)南砂町生まれ
東京大空襲を体験、父・姉・母の養母を失う
「平和祈念館」についてのお訊ねを頂きました。東京にはあの15年戦爭を総括する博物館がありません。私は1931年、昭和6年満州事変が起きた年に生まれました。昭和12年、支那事変、日中戦爭が始まった年に小学校に入学しました。「サイタサイタ、サクラガサイタ、ススメススメ、ヘイタイススメ」の教科書で、物心がついた頃から「勝ってくるぞと勇ましく」と出征兵士を見送りました。日本人はもとより、アジアの人々2000万人の命が奪われたといわれています。大東亜共栄圏建設のための正義の戦爭と叫ばれ、「一億一心」「進め一億火の玉だ」と、国のためならどんなことでも耐えよと、本土決戦、神風が吹くと教え込まれてきました。わが国は万世一系の天皇陛下が統治する国と、「神武」「すいぜい」「安寧」「威徳」と歴代天皇の名や「教育勅語」を暗記させられました。
1945年、昭和20年3月10日未明、あの夜、母親の声で急いで外へ出て見ると、北の空は真っ赤な火柱が吹き上がり、西の空は木場方面が赤く染まっていました。東南の葛西橋の方からは超低空のB29が1機、また1機と探照灯の光に照らされながら木場の方向にゆうゆうと走り去って行きました。
その木場公園に戦後、東京都現代美術館が出来て、キセイノセイキ展が開かれました。広い会場の片隅に砂町の境川附近の惨状を語る映像が展示されていたのが印象に残っています。
今、東京都平和祈念館の建設計画は凍結されたまま残念ながら動きがありません。毎年3月10日の「平和の日」の都の式典も、遺族の募集はわずかで30分ほどでお座なりだという出席者の声が寄せられています。
毎年8月のヒロシマ、ナガサキの式典では数多くの列席者があって、市長の平和宣言や遺族の誓いのことばなどがテレビで中継されています。沖縄には「平和の礎」があって、遺族が終日訪れています。
東京には残念ながら「平和祈念館」も「平和の礎」もなく、都知事の「平和宣言」も聞かれず、首都として恥ずかしくないのでしょうか。私たちは何としても、これからも命のある限り叫び続けて、次の世代にバトンを託したいと存じます。
2021年5月
東京大空襲遺族・大竹正春さんから寄せられた原稿
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