ワークショップ0605
原爆の図丸木美術館で「爆撃の記録」と「原爆の図」の見学会を開催しました。参加者は4人です。
期日 2021年6月5日(土)13:00-17:00
主催 東京都平和祈念館アーカイブズ
[プログラム]
アーカイブズを見ながらレクチャー
見学
感想交換
ワークシート 閲覧・ダウンロード (google drive)
[記録]
Q1 「爆撃の記録」を見て、何が印象に残りましたか。
・都生文局コミュニティ文化部長宛の同意書。証言者は何に同意したのか。文書にあるのは館の展示や普及活動への使用と、館が学術・教育・文化の発展に資すると認めた第三者に貸し出すこと。実際は「活用しない」という東京都の恣意的な判断に、すべてをゆだねる結果になっている。
・切り裂かれた計画、写真のないフォトフレーム、名前のない証言映像リスト。伝えようとする正義が、伝えない不正義を生み出す逆説を感じる。
・空襲で被害にあった人々の証言が、ほかの煩雑なことで凍結している平和祈念館の資料の中にあって、よりリアルに訴えてくる。集まった資料をどんなかたちでも展示した方がいいと思った。
・自分は昭和30年代生まれ、親などから地元和歌山の空襲の話を聞いて育った。展示された証言、フォトフレームに添えられた写真のタイトルを見るだけで、その状況が見えるような気がする。何もなくても想像してしまい、恐かった。しかし、資料館はできていないという現実との落差。鎮魂の思いを持った。
・自分は親などから聞いていたので、展示から想像できる。もし知識がなければ何も想像できないだろう。学校教育のなかで、戦争の悲惨な実態を教えたほうがいい。
・3.10東京大空襲の悲惨な目に遭った人々の証言を目にして、2度と戦争は、繰り返してはならない、資料を継続的に残すべきだと感じた。
・今回の見学会のように、平和祈念館においても展示を見たあと、感想を語り合う場があった方がいいと思った。
・文字を読み、頭で理解する(知識を得る)。今回は文字を読んでいた。
・2016年の展示の時の方が、よりコンテンポラリー。現代美術ではオブジェクトではなく、そこで起こることに意味がある。自分と戦争との向き合い方をふり返り、考えていた。その場に展示品が何もなかったことが自分を刺激した。戦争の疑似体験。展示の場の空気を見ていた。
・2016年の展示では、空間が広く、展示台が低かった。展示全体に緊張感があった。今回の展示は空間が狭く、展示台が高いので、文字を読んでしまう。空気を見るという見方にはならなかった。2016年の方が主体的な見方をしていた。
・キセイノセイキでは、博物館構想のことは知らずに作品を見た。家に帰ってから、平和祈念館がテーマであることを知った。作品を見る上で、事前に持っている知識は大切。
・2016年にもし藤井さんが意図した資料展示が実現していたら、それが、東京大空襲や平和祈念館を知らない人にとって、それらを知る「最初の体験」となり、博物館設立への運動を起こすことができたかもしれない。
Q2 「爆撃の記録」も「原爆の図」も爆撃を受けた人びとの体験をテーマにしています。
しかし、その伝え方にはそれぞれの特徴があります。
「爆撃の記録」の伝え方にはどのような特徴がありますか。
「原爆の図」の伝え方にはどのような特徴がありますか。
また共通点はありますか。
・「爆撃の記録」は資料(言葉)を並べることで、言葉の行間を想像させる。
・「原爆の図」は墨で人体を描き、墨のにじみが生み出す暗がりにあるものを想像させる。
・目に見えないものを想像することの大切さという点は共通している。
・「爆撃の記録」は展示しないという展示で、伝えたいことを表現している。具体的に描かなくても言いたいことは伝わる。自分のなかにあるものが引き出された。
・丸木夫妻はできるかぎり、ありのままを表現して、後世に伝えようとしている。人々が体験したことを、技術を駆使して伝えるという手法。
・丸木夫妻は広島で悲惨な現実を見て後世にこのことを伝たいと思って、「原爆の図」を描き続けた。それほどの衝撃や恐怖や苦しみを負わされたのに、画家として作品に表現する上で、「本当に見たまま」を描くことはできない。その狭間での苦しみを感じて、しんどい。
・共通するのは、戦争は悲惨ということ。
・どちらの作品も、黒色を通した絵から、人の悲鳴が聞こえて来ます。
・「原爆の図」は体験を一次資料的に伝えようとしているが、同時に絵画を成立させるために事実を編集しており、様々な技術を用いて画面を美しくしている。違うと思いながら描いている作家の気持ちを考えると、つらくなる。絵画には人物が多すぎて、こちらの感情が入る隙間がなかった。
・写真や実写映像のディテールは記憶に残り、何かのきっかけでイメージがよみがえる。体験者が書いた体験記や絵にも同じようなインパクトがある。
・さまざまな情報や手法が介在して描かれた絵ではそのようなことは起らない。
・子どものころ見た東京大空襲の写真集は恐ろしくて、強烈なインパクトがあった。今回、「原爆の図」を見て恐いとは思わなかった。
・地元で空襲体験の朗読劇をしている。照明を落とした中で体験記を読むという方法でも、入り込むことができる。体験のない人に伝えたい。しかし、体験や知識のない人は見に来ない。見に来るほとんどの人は体験者や知識をすでに持っている人。戦争を知る「最初の体験」をどう引き起こすかが課題。
Q3 見学会はいかがでしたか?感想を自由に書いてください。
・証言映像を収録したテープは劣化するため、使用可能な期間に年限がある。デジタル化が必要という指摘が気になっている。
・こうまでして空襲しなければならないと思った人の気持ちを知りたい。
・キセイノセイキの展示をふり返る機会になった。
・現代美術の作品は必ずしもすぐに分からなくてよい。何年かたって、「ああ、そうだったのか」と分かるような展示があってもいい。藤井さんがこの作品をつくって、今回、こうして違うかたちで展示したことは意味がある。
[後記]
「最初の体験」をめぐる逆説 山本唯人 2021.06.06
今回のワークショップ参加者は、全員戦後生まれの大人世代で、自分が戦争の悲惨さを知る「最初の体験」を、いつどこでしたのかが話題になった。この「最初の体験」とは、戦争を実際に体験した人と自分の立場を置き換えて、その恐さを「疑似体験」したときのこと、とも言い換えられる。
戦争の現実には、どんなに描いても描き切れない細部が残ってしまう。「原爆の図」はそれでもその現実を、絵画として成立させようとした努力の賜物であるが、皮肉にも事後的な知識や技量によって描かれた絵画は、ありのままの描写とは別物になってしまう。
現実をそのまま撮影した写真や実写映像には強烈なインパクトがあり、いつまでも記憶に残り続ける。一方、技量によって描かれた絵画は、知識なしでも理解できるが、記憶には残らない。
子供のころ東京大空襲の写真集に感じた恐怖と比べて、今回、「原爆の図」を見て「恐い」とは思わなかったという参加者の感想は、興味深いものだった。
「爆撃の記録」は、具体的な絵が一切「ない」だけに、返って「リアル」なイメージを呼び起こすことができる。
ところが、現実の状況を描かない「爆撃の記録」の手法は、知識のない鑑賞者には、何も思うことができない。現代美術の巧妙な手法は、背景の知識があるかないかによって、評価が反転してしまうのだ。
したがって、ワークショップ後の会話では、戦争の現実を「疑似体験」する、「最初の体験」をいつ、誰が、どのように提供するかが重要だという意見が出された。
しかし、いつ、誰が、どのように?そして、何を?
美術作品は、「すぐに分からなくてもいい」。
わたしたちが70年以上たって、「幽霊」に心を揺さぶられているように、「爆撃の記録」の作家も、展示を見たひとも、批判者も誰もいなくなったあと、この作品の意味を発見してくれるX氏が現われるのだろうか?
「爆撃の記録」展示室にて 於原爆の図丸木美術館 2021.06.05
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