展評
毛利嘉孝「記録と記憶—公的な記憶は誰によってつくられ維持されるのか」『ウエブ版美術手帖』2021.6.8 閲覧

遠藤協「藤井光「爆撃の記録」展」『遠藤協』(note)2021.6.12 閲覧

論考
藤井光「閉ざされたG空間」『ウエブ版美術手帖』2021.6.12 閲覧

報道
「東京大空襲の記憶の継承めぐる作品 原爆の図丸木美術館」(丸山ひかり)『朝日新聞』2021.6.12 閲覧


参考
togetter「「爆撃の記録」の感想」(まとめ 山本唯人)2016.6.2 閲覧

原爆の図丸木美術館で「爆撃の記録」と「原爆の図」の見学会を開催しました。参加者は5人です。
期日 2021年6月13日(日)13:00-17:00
主催 東京都平和祈念館アーカイブズ

[プログラム]

アーカイブズを見ながらレクチャー
見学
感想交換

ワークシート 閲覧・ダウンロード (google drive)

[記録]

Q1 「爆撃の記録」を見て、何が印象に残りましたか。

・異様な白さ。「原爆の図」の暗い展示室と対照的。その白さが怖く思えた。
・調べれば見られるであろう資料を白い部屋で均等に並べる意味とは?こんな方法もありなのだと思った。
・ドレスデン空襲の慰霊碑に刻まれた詩の説明がピンと来なかった。中の展示とリンクできなかった。
・(米英の無差別空襲を受けたドレスデンがネオナチの「聖地」にもなっている情報を聞いて)体験者がいなくなり、記憶が薄れていくと過激な解釈が生まれやすくなりそう。
・証人がいればどこかでバランスがとれる。
・アメリカ軍による空襲の悲惨さを展示する博物館で、加害を展示すべきでないという批判について。日本軍による加害は仕方がないと受けとられる可能性について、注意深く考えていなかったのではないか。
・展示の鳥観図、いかにも「古い」と感じられるところがあった。丸形のシアターなど。

・「逃げまどう人々」のコーナーは人形の展示。広島で撤去された人形と似たような展示なのか。
・G空間は未完成。対話が生まれることで完成する。
・「アジアの人々に犠牲を強いた面」、「東京空襲に至る道」を上映する映像シアターなど、加害の面も展示されていると思った。

・写真のないフォトフレーム。計画が流れたことに対するどうしようもない気持ちを感じた。
・あのような資料たちが未だに公開されていないことに改めて驚く。
・名前がつぶされた証言リストを見て、証言した人たちや同意書を書いた人たち、ひとつひとつの工程に真剣に携わった人たちの気持ちの行き場が気になってしまう。
・体験者のインタビュー方法も気になった。かなりの配慮と計画の中で撮ったことが分かる資料だった。


Q2 「爆撃の記録」も「原爆の図」も爆撃を受けた人びとの体験をテーマにしています。
「爆撃の記録」の伝え方にはどのような特徴がありますか。
「原爆の図」の伝え方にはどのような特徴がありますか。
また共通点はありますか。

・「爆撃の記録」は無機質、明るい。
・知識がないと分からないと思う。
・「原爆の図」はいつ見てもドキドキする。感情に訴える。迫力がある。初心者に伝わりやすい。
・赤青の使い方。遠くから見ると黒々としか見えないのに、よく見ると骸骨が細かく描かれている。
・「焼津」の無言で訴えてくるシーンがすごい。
・共通点は言葉で説明しきらないこと。そのことで見たひとに発見がある。課題が残される。

・「爆撃の記録」は展示計画の流れを示す。色々なテーマを含んで包括的。淡々と記録している。生死より歴史の継続性に焦点を当てていた。
・「原爆の図」は「8月6日の広島」に焦点を絞って体験を詳細に描く。インパクトや生々しさがある。
・教科書で見た戦争のイメージに近い。
・主に被害の面が描かれている。悲惨さやショックで思考停止してしまう危険性がある。

・「爆撃の記録」は文字での伝え方。たくさんの人の証言を文字として吸収し、自分の頭の中で再生される。
・文字で体験することで想像は無限大になり、より生々しい状況を考えてしまう。写真や絵では伝えきれなかった感情が細かく表現されており、自分自身の感情が投影されるような感覚がある。
・「原爆の図」は原爆で人が苦しむ群像を絵で表現している。当時の空気感が視覚を通して感じられる。絵に飲み込まれる感覚がある。
・共通点は空気感を絵で捉えるか、自分の頭で捉えるかの違いはあっても、爆撃が不本意で理不尽で邪悪で悲しいものということが同じように伝わった。

・どちらも人の顔が見えない。個人の体験は詳しく描かれておらず、状況が描かれていると思った。

・学校などで多面的な知識を得ているので思考停止にはならないのではないか。

・「原爆の図」は原爆の体験を伝えようとしているが、「爆撃の記録」は東京都平和祈念館が凍結されたことを伝えている。設定が異なっているので、単純に比較できない。


Q3 見学会はいかがでしたか?感想を自由に書いてください。

・「原爆の図」を見るのは3回目なのに疲れた。何度見ても感じるものがある。

・埼玉県の遠い地に、初めてのメンバーと集まり同じものを見て、その感想を議論する。その「場」自体が、対人交流が少なくなった今、とても有意義であり新鮮だった。
・初めての丸木美術館だったが、他の方は何度目かの来訪であり、初見かそうでないかで感想の持ち方が違ったので、それも面白かった。何度も来ると原爆の図のそんな細かいところまで考察できるのかと、感心した。
・意外に感じたのは、藤井さんの展示に対する意見。あの展示の仕方はあれはあれで有意義で、東京大空襲の博物館ができないという事実から派生される日本の戦災への考え方に対する批判を、間接的に訴えかけてくるものとして良いと思った。しかし思いのほか皆さんの意見は辛口であったため、「そういう批判がああいう展示では生まれるのか」と勉強になった。自分は何でもかんでもあるがまま肯定的に受け取るところがあると思った。

・前回訪れた時には「原爆の図」だけを見たので、「ひどい、むごい、これが人間なのか」など絵に対する感想だけだったが、今回は「爆撃の記録」があったので、対照的な2つの展示として見ることができた。
・被害にあう人たちが居るならば必ずその裏側には加害を加えた人たちがいるということ、戦争そのものも、ある側面からのみ見ているとすごく偏った見方になってしまうということを感じました。

・色々な人の意見が聞けてためになった。同じものを見ても全く違う感想がある。美術館の良さを感じた。


[後記]

イメージから離れるには 山本唯人 2021.06.14

 見学会の参加者は20代の女性3人、40代の男性2人というメンバーでした。
 東京都平和祈念館が「凍結」されたころに生まれた世代の若者と、「爆撃の記録」と「原爆の図」を見て。
 「こわい」という言葉がたびたび出てきて、印象に残りました。

 絵がこわい、のではありません。
 例えば、「爆撃の記録」の部屋の「異様な白さ」。「原爆の図」の「迫力」に飲み込まれ、「思考停止」してしまうことを、「こわい」と思うのです。
 彼女たちが感じた「こわさ」は、麻酔的なイメージで想像力を引き出す、芸術の「魅力」と表裏の関係にあるものでしょう。

 どんなにすぐれた作品も、すべてを表すことはできません。
 だからこそ、あえて日常の思考を停止して、自分にはない経験を想像するとともに、どこかで思考停止する作業を停止して、もう一度、そのイメージを捉え返さないといけないのです。

 こうした美術が誘う未知な世界への敏感すぎるともいえる感性が、若い世代である彼女たちの一つの特徴であるように感じました。

 その感性を使って、例えば―「文字」は写真や絵が表せない繊細な感情を表現できるため返って「生々しい」感じがすること、空襲博物館に「加害を展示すべきでない」という批判は、「加害は仕方がない」というメッセージとして受け取られかねないことなど、戦争の博物館にとって重要な視点を発見しています。

 美術が機能する上で、想像力を引き出すだけでなく、そこから離れるための情報が必要であることを、彼女たちとの対話は示してくれているように思います。

 

 

「爆撃の記録」展示室にて 於原爆の図丸木美術館 2021.06.13


原爆の図丸木美術館 新館ロビーにて 2021.06.13

原爆の図丸木美術館で「爆撃の記録」と「原爆の図」の見学会を開催しました。参加者は4人です。
期日 2021年6月5日(土)13:00-17:00
主催 東京都平和祈念館アーカイブズ

[プログラム]

アーカイブズを見ながらレクチャー
見学
感想交換

ワークシート 閲覧・ダウンロード (google drive)

[記録]

Q1 「爆撃の記録」を見て、何が印象に残りましたか。

・都生文局コミュニティ文化部長宛の同意書。証言者は何に同意したのか。文書にあるのは館の展示や普及活動への使用と、館が学術・教育・文化の発展に資すると認めた第三者に貸し出すこと。実際は「活用しない」という東京都の恣意的な判断に、すべてをゆだねる結果になっている。
・切り裂かれた計画、写真のないフォトフレーム、名前のない証言映像リスト。伝えようとする正義が、伝えない不正義を生み出す逆説を感じる。

・空襲で被害にあった人々の証言が、ほかの煩雑なことで凍結している平和祈念館の資料の中にあって、よりリアルに訴えてくる。集まった資料をどんなかたちでも展示した方がいいと思った。
・自分は昭和30年代生まれ、親などから地元和歌山の空襲の話を聞いて育った。展示された証言、フォトフレームに添えられた写真のタイトルを見るだけで、その状況が見えるような気がする。何もなくても想像してしまい、恐かった。しかし、資料館はできていないという現実との落差。鎮魂の思いを持った。
・自分は親などから聞いていたので、展示から想像できる。もし知識がなければ何も想像できないだろう。学校教育のなかで、戦争の悲惨な実態を教えたほうがいい。

・3.10東京大空襲の悲惨な目に遭った人々の証言を目にして、2度と戦争は、繰り返してはならない、資料を継続的に残すべきだと感じた。
・今回の見学会のように、平和祈念館においても展示を見たあと、感想を語り合う場があった方がいいと思った。

・文字を読み、頭で理解する(知識を得る)。今回は文字を読んでいた。
・2016年の展示の時の方が、よりコンテンポラリー。現代美術ではオブジェクトではなく、そこで起こることに意味がある。自分と戦争との向き合い方をふり返り、考えていた。その場に展示品が何もなかったことが自分を刺激した。戦争の疑似体験。展示の場の空気を見ていた。
・2016年の展示では、空間が広く、展示台が低かった。展示全体に緊張感があった。今回の展示は空間が狭く、展示台が高いので、文字を読んでしまう。空気を見るという見方にはならなかった。2016年の方が主体的な見方をしていた。
・キセイノセイキでは、博物館構想のことは知らずに作品を見た。家に帰ってから、平和祈念館がテーマであることを知った。作品を見る上で、事前に持っている知識は大切。
・2016年にもし藤井さんが意図した資料展示が実現していたら、それが、東京大空襲や平和祈念館を知らない人にとって、それらを知る「最初の体験」となり、博物館設立への運動を起こすことができたかもしれない。


Q2 「爆撃の記録」も「原爆の図」も爆撃を受けた人びとの体験をテーマにしています。
しかし、その伝え方にはそれぞれの特徴があります。
「爆撃の記録」の伝え方にはどのような特徴がありますか。
「原爆の図」の伝え方にはどのような特徴がありますか。
また共通点はありますか。

・「爆撃の記録」は資料(言葉)を並べることで、言葉の行間を想像させる。
・「原爆の図」は墨で人体を描き、墨のにじみが生み出す暗がりにあるものを想像させる。
・目に見えないものを想像することの大切さという点は共通している。

・「爆撃の記録」は展示しないという展示で、伝えたいことを表現している。具体的に描かなくても言いたいことは伝わる。自分のなかにあるものが引き出された。
・丸木夫妻はできるかぎり、ありのままを表現して、後世に伝えようとしている。人々が体験したことを、技術を駆使して伝えるという手法。
・丸木夫妻は広島で悲惨な現実を見て後世にこのことを伝たいと思って、「原爆の図」を描き続けた。それほどの衝撃や恐怖や苦しみを負わされたのに、画家として作品に表現する上で、「本当に見たまま」を描くことはできない。その狭間での苦しみを感じて、しんどい。
・共通するのは、戦争は悲惨ということ。

・どちらの作品も、黒色を通した絵から、人の悲鳴が聞こえて来ます。

・「原爆の図」は体験を一次資料的に伝えようとしているが、同時に絵画を成立させるために事実を編集しており、様々な技術を用いて画面を美しくしている。違うと思いながら描いている作家の気持ちを考えると、つらくなる。絵画には人物が多すぎて、こちらの感情が入る隙間がなかった。
・写真や実写映像のディテールは記憶に残り、何かのきっかけでイメージがよみがえる。体験者が書いた体験記や絵にも同じようなインパクトがある。
・さまざまな情報や手法が介在して描かれた絵ではそのようなことは起らない。
・子どものころ見た東京大空襲の写真集は恐ろしくて、強烈なインパクトがあった。今回、「原爆の図」を見て恐いとは思わなかった。
・地元で空襲体験の朗読劇をしている。照明を落とした中で体験記を読むという方法でも、入り込むことができる。体験のない人に伝えたい。しかし、体験や知識のない人は見に来ない。見に来るほとんどの人は体験者や知識をすでに持っている人。戦争を知る「最初の体験」をどう引き起こすかが課題。


Q3 見学会はいかがでしたか?感想を自由に書いてください。

・証言映像を収録したテープは劣化するため、使用可能な期間に年限がある。デジタル化が必要という指摘が気になっている。

・こうまでして空襲しなければならないと思った人の気持ちを知りたい。

・キセイノセイキの展示をふり返る機会になった。
・現代美術の作品は必ずしもすぐに分からなくてよい。何年かたって、「ああ、そうだったのか」と分かるような展示があってもいい。藤井さんがこの作品をつくって、今回、こうして違うかたちで展示したことは意味がある。


[後記]

「最初の体験」をめぐる逆説 山本唯人 2021.06.06

 今回のワークショップ参加者は、全員戦後生まれの大人世代で、自分が戦争の悲惨さを知る「最初の体験」を、いつどこでしたのかが話題になった。この「最初の体験」とは、戦争を実際に体験した人と自分の立場を置き換えて、その恐さを「疑似体験」したときのこと、とも言い換えられる。

 戦争の現実には、どんなに描いても描き切れない細部が残ってしまう。「原爆の図」はそれでもその現実を、絵画として成立させようとした努力の賜物であるが、皮肉にも事後的な知識や技量によって描かれた絵画は、ありのままの描写とは別物になってしまう。

 現実をそのまま撮影した写真や実写映像には強烈なインパクトがあり、いつまでも記憶に残り続ける。一方、技量によって描かれた絵画は、知識なしでも理解できるが、記憶には残らない。

 子供のころ東京大空襲の写真集に感じた恐怖と比べて、今回、「原爆の図」を見て「恐い」とは思わなかったという参加者の感想は、興味深いものだった。

 「爆撃の記録」は、具体的な絵が一切「ない」だけに、返って「リアル」なイメージを呼び起こすことができる。

 ところが、現実の状況を描かない「爆撃の記録」の手法は、知識のない鑑賞者には、何も思うことができない。現代美術の巧妙な手法は、背景の知識があるかないかによって、評価が反転してしまうのだ。

 したがって、ワークショップ後の会話では、戦争の現実を「疑似体験」する、「最初の体験」をいつ、誰が、どのように提供するかが重要だという意見が出された。
 しかし、いつ、誰が、どのように?そして、何を?

 美術作品は、「すぐに分からなくてもいい」。
 わたしたちが70年以上たって、「幽霊」に心を揺さぶられているように、「爆撃の記録」の作家も、展示を見たひとも、批判者も誰もいなくなったあと、この作品の意味を発見してくれるX氏が現われるのだろうか?


「爆撃の記録」展示室にて 於原爆の図丸木美術館 2021.06.05

ミュージアム研究者の小森真樹さんより、藤井光「爆撃の記録」と東京都平和祈念館アーカイブズに短いレビューをいただきました。

小森真樹ブログ phoiming, 2021.05.17
「美術と美術館が語りつぐ公共で/の記憶:藤井光《爆撃の記録》@原爆の図 丸木美術館、東京都平和祈念館アーカイブズ」
参照


「日本では「公共」という考え方自体が曖昧なままであり、実現されているとはいいがたい状況にある。《爆撃の記録》からこのワークショップ、そしてウェブサイトへという展開は、公共で/の記憶を語りつぐこと(=パブリック・ヒストリー)における「美術」や「美術館・展覧会」という方法の可能性を示した好例だと思う。」(小森 ブログ記事より)

 2016年、キセイノセイキ展で「爆撃の記録」を見た東京大空襲の遺族、大竹正春さんに「爆撃の記録」の印象、東京都平和祈念館に思うというテーマで、文章を寄せてもらいました。


[寄稿]

「平和憲法を守り、戦爭につながることには立ち止まって皆でよく考えましょう」

大竹正春
1931年、城東区(現江東区)南砂町生まれ
東京大空襲を体験、父・姉・母の養母を失う

 「平和祈念館」についてのお訊ねを頂きました。東京にはあの15年戦爭を総括する博物館がありません。私は1931年、昭和6年満州事変が起きた年に生まれました。昭和12年、支那事変、日中戦爭が始まった年に小学校に入学しました。「サイタサイタ、サクラガサイタ、ススメススメ、ヘイタイススメ」の教科書で、物心がついた頃から「勝ってくるぞと勇ましく」と出征兵士を見送りました。日本人はもとより、アジアの人々2000万人の命が奪われたといわれています。大東亜共栄圏建設のための正義の戦爭と叫ばれ、「一億一心」「進め一億火の玉だ」と、国のためならどんなことでも耐えよと、本土決戦、神風が吹くと教え込まれてきました。わが国は万世一系の天皇陛下が統治する国と、「神武」「すいぜい」「安寧」「威徳」と歴代天皇の名や「教育勅語」を暗記させられました。

 1945年、昭和20年3月10日未明、あの夜、母親の声で急いで外へ出て見ると、北の空は真っ赤な火柱が吹き上がり、西の空は木場方面が赤く染まっていました。東南の葛西橋の方からは超低空のB29が1機、また1機と探照灯の光に照らされながら木場の方向にゆうゆうと走り去って行きました。

 その木場公園に戦後、東京都現代美術館が出来て、キセイノセイキ展が開かれました。広い会場の片隅に砂町の境川附近の惨状を語る映像が展示されていたのが印象に残っています。

 今、東京都平和祈念館の建設計画は凍結されたまま残念ながら動きがありません。毎年3月10日の「平和の日」の都の式典も、遺族の募集はわずかで30分ほどでお座なりだという出席者の声が寄せられています。

 毎年8月のヒロシマ、ナガサキの式典では数多くの列席者があって、市長の平和宣言や遺族の誓いのことばなどがテレビで中継されています。沖縄には「平和の礎」があって、遺族が終日訪れています。

 東京には残念ながら「平和祈念館」も「平和の礎」もなく、都知事の「平和宣言」も聞かれず、首都として恥ずかしくないのでしょうか。私たちは何としても、これからも命のある限り叫び続けて、次の世代にバトンを託したいと存じます。

2021年5月

東京大空襲遺族・大竹正春さんから寄せられた原稿

原爆の図丸木美術館で「爆撃の記録」と「原爆の図」を見学するワークショップを開催しました。参加者は2人です。
期日 2021年5月14日
主催 東京都平和祈念館アーカイブズ

[プログラム]

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見学
意見交換

ワークシート 閲覧・ダウンロード  (google drive)

[記録]

Q1 「爆撃の記録」を見て、何が印象に残りましたか。

・空白。資料と資料の間の空白、またフォトフレームの中の空白。本来、大文字の歴史的出来事でありながら、映像、資料が不可視化されてきた上に、残された資料さえも分断され見ることが容易でないことの表現として。

・証言映像から抜粋したわずかな言葉の鮮烈さ。ポツンポツンとしかない展示がせまってくるのはなぜだろう。

・黒塗りの名前は逆に塗られた下にある名前を意識させる。

・凝縮された人の体験を表しているので印象に残ったのだろう。


Q2 「爆撃の記録」も「原爆の図」も爆撃を受けた人びとの戦争体験をテーマにしていますが、伝え方にはそれぞれの特徴があります。
「爆撃の記録」の伝え方には、どのような特徴がありますか。
「原爆の図」の伝え方には、どのような特徴がありますか。
また共通点はありますか。

・「爆撃の記録」は皮肉にも表象の不可能性のような事態を指し示すような展示になっているという印象。直接的なイメージ、言葉、資料がないことが特徴となっている。

・「原爆の図」は饒舌な語りのキャプションが強いイメージを喚起する。

・「爆撃の記録」では、真っ白な部屋が見る人の想像力を受けとめてくれる。

・「原爆の図」では、描かれた人の姿が体験を伝えている。

・一人ひとりの体験に焦点を当てている点は共通しているのではないか。


Q3 見学の感想を自由に書いてください。

・東京と広島の歴史的出来事をめぐるその後の経緯を含めた違いについて考える材料をいただきました。

・事前のレクチャーが長すぎたか。


意見交換

・フォトフレームの展示は、石川光陽撮影の写真を参考にしたものだと思うが、(展示可能な写真を)なぜ空白にしたのか。

・「爆撃の記録」は抽象的で、具体的な場所と結び付けてみるのが難しいと思っていた。平和祈念館の最初の候補地が「佃」であったことなど、場所のイメージがあると自分に引き寄せて見られるように思う。

・入口のドレスデン空襲についての言葉のパネルが、この展示のテーマを要約しているが、逆に加害・被害論以外の文脈が想像しづらくなる効果もあるかもしれない。

・資料展示は博物館計画に関するものと、証言映像に関するものがある。博物館計画は抽象的かもしれないが、証言映像の資料は具体的で、証言の場所も書かれている。

・アーカイブズの年表が1990年代から始まっている。そこからだと平和祈念館問題が、突然歴史戦の端緒のように起こった印象。戦後の文脈にも触れた方がよいのでは。

原爆の図丸木美術館 新館ロビーにて 2021.05.14

作成 東京都
開示方法 写しの交付

 東京都への開示請求によって開示された東京都所蔵の東京空襲関連資料のリスト。東京都が東京都平和祈念館建設のために収集・制作した資料のリストと推定される。

 以下、3種類のリストからなる:

・「東京空襲資料名一覧」 物品資料5040点(都民の寄贈資料3492点・都の購入資料1548点)

・「東京空襲資料名一覧(証言記録映像)」 330点
 公にされている証言者以外の証言者氏名は、個人に関する情報で特定個人を識別できるため、都情報公開条例第7条第2号により非開示。

・「東京空襲資料名一覧(パネル等の制作物)」 100点

 合計資料数 5470点

1999年3月11日 第1回定例会(第6号)
第一号議案 平成十一年度東京都一般会計予算

「付帯決議

一 (略)

二 平和祈念館(仮称)については、次の事項に配慮すること。

 (1) 平和祈念館の建設に当たっては、都の厳しい財政状況と従来の経過を十分踏まえ、展示内容のうち、未だ議論の不十分な事実については、今後さらに検討を加え、都議会の合意を得た上で実施すること。

 (2) 東京空襲犠牲者追悼碑の早期建立に取り組むこと。

 (3) 東京空襲犠牲者名簿の収集・作成を平成十一年度の早期に開始すること。」

出典 東京都議会 会議録
平成11年_第1回定例会(第6号) 本文 1999-03-11(7)


[説明]
 1999年3月、都議会は「厳しい財政状況」と展示内容に「いまだ議論の不十分な事実」があることを理由に、東京都平和祈念館の建設に当たっては「都議会の合意」を条件とするなど、3項目の付帯決議を付けて、一般会計予算を可決した。

 1999年4月、石原慎太郎都知事が誕生し、同年8月ごろ、平和祈念館関連予算の次年度計上を見送る方針を固めた。これで平和祈念館建設計画の「凍結」が確定的になった。

参考文献
「都平和祈念館、建設凍結へ 展示案対立財政難深刻で来年度計上断念」『朝日新聞』1999年8月18日

展示基本設計の考え方の比較、展示基本設計の考え方A

展示基本設計の考え方A 常設展示平面イメージ図

展示基本設計の考え方B

展示基本設計の考え方B 常設展示平面イメージ図

(参考)展示基本設計原案(タタキ台)
出典 第11回 東京都平和祈念館(仮称)建設委員会 配布資料

個人意見「平和祈念館建設委員会の報告にあたって」

個人意見「癒されぬ悲しみ」「「建設委員会」のまとめに関する意見」

個人意見「意見」「東京都平和祈念館建設委員会の報告にあたっての意見」

個人意見「まとめについての意見」


『東京都平和祈念館(仮称)建設委員会報告』
作成 東京都平和祈念館(仮称)建設委員会
発行年 1998年7月
閲覧
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[説明]

 「展示基本設計案(タタキ台)」には、「証言・体験者・交流等」の場として「G空間」が設けられた。

 東京都平和祈念館(仮称)建設委員会は、都から示された展示基本設計タタキ台を素材に展示内容を検討し、出された各委員の意見を基に、展示部会において「展示基本設計の考え方A」と「展示基本設計の考え方B」の二つの考え方に整理した(展示部会部会長 饗庭孝典)。

 建設委員会では幅広い意見が出され、委員の意見が一つに集約されなかったため、二つの考え方をそれぞれ報告することにした。

 報告に当たり委員から提出された個人意見が、報告の一部として収録された。

東京都平和祈念館と復興記念館の「複合施設」案
出典 第6回東京都平和祈念館(仮称)建設委員会 配布資料(1997年6月2日)
閲覧 (google drive)

 東京都平和祈念館の建設候補地は、『東京都平和祈念館(仮称)基本計画』(1994年5月)では「中央区佃二丁目の大川端地区、文化・商業等施設用地(2.6ha)の一部」とされていた。その後、財政難を背景に「都有地の活用」に変更され、1996年6月27日、第2回東京都平和祈念館(仮称)建設委員会で、建設場所は「東京都横網町公園」と決定された。

 同年11月8日、これを受けて、同じ公園内の復興記念館(関東大震災の展示施設、1931年建設)を建て替えた上で両施設を「合築」する案が決定された(第3回建設委員会)。

 性格の異なる施設を「合築」する案には、建築の専門家や市民から見直しを求める声が寄せられた。

 そこで、1997年6月2日、建設区域を拡大し、両施設の「目的と性格を尊重」しながら、地下施設でつながり「建築機能的には同一建物」とする「複合施設」案が提案され、決定された(第6回建設委員会、建築部会部会長 藤森照信)。

1998年3月5日第1回定例会(第4号)
土屋たかゆき(民主党)

「次に、東京都平和祈念館についてお伺いいたしますが、この際、昭和二十年三月十日の東京大空襲で亡くなられた十万余の市民のみたまに、心から追悼の意を表したいと思います。

 私は、平和祈念館の建設について、公平、公正な展示のもとに、参観者が平和について冷静に考えることのできる施設の実現に全力を尽くす決意であり、同時に、過ちを二度と繰り返さないための平和アピールを発信するという民主党の基本政策及び基本理念に基づいて平和祈念館建設問題を検証していく必要があると考えております。

 今、議会では、軍事都市東京という言葉の是非が議論になっています。当時の東京をこうした言葉で表現する新しい手法は、軍事基地があったから、軍需工場があったから、空襲は仕方なかったという空襲容認論に道を開くものであり、不適切といわざるを得ません。東京の下町の広い地域に焼夷弾をまき、あらかじめ退路をふさいでから多数の市民を焼き殺した東京大空襲は、全住民を恐怖に陥れることによって意思を強制する方法を用いるアメリカの戦略爆撃の思想に基づくものであり、東京を焼き畑にするといった東京大空襲の指揮官であるカーチス・ルメイの発想でもあり、広島及び長崎への原爆投下と同様に、国際法に違反した無差別殺りく行為であることは明らかな事実です。

 さらに重要なことは、展示全体の構成が、明らかに、東京大空襲は日本の侵略の結果であるという意図のもとにつくられているということです。この平和祈念館は、戦争の無残さ、恐ろしさを後世に伝えると同時に、東京大空襲で亡くなった十万人の方々の追悼をすることも大きな使命の一つでなくてはなりません。しかし、いつの間にか、日本の加害責任を追及する展示が多くを占め、昨年、都の示した展示計画案では、慰霊は全体の七分の一でしかありません。

 そして、日本の受けた侵略、殺りくは一切無視されています。満州や北方領土での同胞の殺りくに触れないで、参観者が真の平和を考えることは果たしてできるでしょうか。

 つまり、日本加害説のみを取り上げ、その他の歴史的事実を無視することで、東京大空襲は、日本がアジアを侵略した当然の結果だといった空襲容認論に立った展示内容では、公平な歴史観を養い、そのもとで日本と世界の平和を考える心を育成することにはならないと思います。欧米列強のアジア植民地政策、日本の責任、日本への侵略を客観的に展示することが必要と考えますが、知事の所見をお伺いしたいと思います。

 既に、こうした平和祈念館と同じものが、長崎や大阪でもできています。しかし、長崎の原爆資料館は、平成八年四月一日の開館後、展示に多くの誤りや不適切な表現、やらせ写真まで使用していたことが判明し、約百五十カ所の訂正が行われたのです。

 そして、当時、展示内容を開館三カ月前まで明らかにしなかったことに非難が集中しましたが、当事者である長崎の本島元市長は、週刊誌のインタビューに答えて、なぜその展示内容をオープンにしなかったかというと、公表すれば、できるものもできないからです、議会に詳細に話したりすればまとまるはずがない、少数者は無視するしかないと発言をしています。つまり、自分の正しいと信ずる目的のためには、情報を閉鎖し、少数者は無視しても当然であるといっています。市と都の違いはありますが、自治体の長として、知事のこの問題に対するご感想をお伺いしたいと思います。

 さて、昨年の都議会議員選挙では、私は情報公開を公約として掲げていましたが、青島知事も開かれた都政を目指しています。しかし、平成四年から検討が始まった平和祈念館は、基本構想懇談会で骨子が決定され、平成六年三月、基本計画に関する調査委員会において、展示の細目や開館後の運営形態までもが決定されたにもかかわらず、議会に正式に報告されず、昨年十二月の常任委員会での集中審議に入ってから、ようやくその展示内容などが報告されたのです。長崎と同様、東京もこの間、積極的に広報を行ってきたとはいえません。昨年十月以降、東京都平和祈念館の問題がかなりマスコミに出ている現状でさえ、多くの都民はこの問題を知りません。

 平和祈念館の建設については、一人でも多くの都民の意見を聞き、英知を集めて、本当に戦争の惨劇を繰り返さない内容のものとすべきです。そのためには、今のうちから展示内容を都民に示して、意見を集約すべきではないでしょうか。

 同時に、建設予定地である墨田区横網町公園周辺の住民への広報を十分に行うべきです。

 都は、昨年十二月四日、五日の両日、江戸東京博物館会議室において町内会への説明会を実施していますが、出席した者はわずか二十六名にすぎず、しかも、出席した住民の方からは、軍事都市東京という表現は問題ではないか、震災と戦災を同じ場所で慰霊するのはおかしい、地下の施設は建設費がかかるのではないかといった素朴な疑問が上がっています。展示内容の広報を含め、建設予定地ばかりでなく、各地において、都民のさまざまな意見を聞く会を開催すべきと思いますが、お考えをお聞きしたいと思います。

 さらに、新設される平和祈念館は、東京大空襲罹災後の都民の復興の軌跡を伝える施設とすべきです。東京都民は、この困難な状況の中で、首都東京の一日も早い復興を願い、再建に力を尽くしてきました。今日の東京都の繁栄の根源をたどれば、それは、戦災復興に始まる都民の努力にあることを忘れてはなりません。

 私は、都が建設する平和祈念館には、焦土の中から復興のために立ち上がった都民の姿を掘り起こし、これを後世に伝える展示資料が必要だと考えます。

 また、新設される平和祈念館の運営は、広く市民に公開された公平、公正のものとすべきです。施設の運営が一部の人々の意見で決定されてはなりません。施設の運営については、各界の代表による運営委員会を設置すると同時に、議会にチェック機能を持たせることも必要です。施設の展示についても、開館前はもちろん、開館後も展示検討委員会によって内容を検証し、公平、公正な展示を心がけなければなりません。私は、都が建設する平和祈念館の運営は、広く市民に公開された公平、公正なものとすべきだと考えます。

 最後に、この平和祈念館は、十分な情報公開と議論のもとに、建設に向けてさらなる努力を重ねていくべきだと考えております。

 都は、平成五年六月の東京都平和記念館基本構想懇談会報告の中で明らかにされている、第一に、戦争の惨禍を語り継ぎ、都民一人一人が平和の大切さを確認する拠点として設置されることが期待されます、第二に、都民の平和への願いを世界に向けて発信する拠点、つまり東京の平和のシンボルとして設置されることが期待されますという平和祈念館建設の原点に立ち返って、開かれた議論の中で、都民の意見を反映した展示内容とすべきであると思いますが、ご所見をお伺いしたいと思います。」

出典 東京都議会  会議録
平成10年_第1回定例会(第4号) 本文 1998-03-05(31)


[説明]

都議会意見1の説明を参照

1998年3月4日第1回定例会(第3号)
桜井武(自由民主党)

「次に、平和祈念館の建設に関連して、都の考え方についてお伺いいたします。

 都が東京都平和祈念館の建設について検討を始めたのは、平成四年一月の東京都平和の日記念行事企画検討委員会から、平和記念館の整備を検討すべきとの提案がなされたときからであります。その後、都は、平成四年六月に、東京都平和記念館基本構想懇談会を設置いたしました。平成四年八月には、戦災者平和記念碑建立の会から、十一万五千人余の署名を添えて、内閣総理大臣と東京都知事あてに、東京空襲犠牲者十万人余の霊を祭る東京都戦災者平和記念碑を建立されたい旨の要望が出されました。

 平成五年六月には、懇談会から報告がなされ、平和祈念館の基本的な性格は、東京空襲の犠牲者を悼み、都民の戦争体験を継承すること、平和を学び考えること、東京の平和のシンボルとすること、平和に関する情報のセンターとすることにあるとされました。

 私はこの基本的な性格に賛成するものですが、基本構想懇談会の議事録を読みますと、平和祈念館は、何よりもまず東京大空襲の犠牲者の慰霊、鎮魂を重視すべきという委員の皆様の共通の認識であったと思います。私も、平和祈念館建設の出発点は、東京空襲で亡くなられた方々の慰霊、鎮魂であると思うのであります。

 ところが、現在、検討のたたき台となっています展示基本設計案を見ると、東京空襲犠牲者を悼むという視点が非常に薄れてきているような気がいたします。

 ところで、建設予定地である墨田区は、関東大震災と東京大空襲という二度の大きな被害を受けた地区でございます。特に関東大震災では、横網町公園周辺で多くの方が亡くなられ、その方々を慰霊するという観点から、震災記念堂と復興記念館が建てられたところでございます。東京大空襲では十万人余の方々が亡くなられ、震災記念堂の納骨堂に東京空襲で亡くなられた方々のお骨が納められ、昭和二十六年には、震災記念堂の名称を東京都慰霊堂に改めたという経緯があります。その意味で、平和祈念館の展示内容については、空襲犠牲者を悼むという視点が何よりも大切だと思います。私も、戦争は二度と起こってはならないし、平和な世界の実現を期待しておりますが、戦後五十年という歳月は、いまだ歴史になっていないという思いがするのであります。

 そこでお伺いいたします。まず初めに、平和祈念館の展示は、平和の大切さを伝えることはもとよりでございますけれども、東京空襲の悲惨さを伝え、また、空襲犠牲者を悼むという点を重視する方向で作成すべきと考えますが、いかがでしょうか。

 次に、平和のモニュメントについてであります。

 先ほど私が述べた戦災者平和記念碑建立の要望に対し、東京都は、平和のモニュメントを建設することで対応したいと答えております。しかし、平和記念館基本構想懇談会報告を見ますと、平和のモニュメントは、東京空襲の犠牲者を追悼し、同時にさきの大戦中の世界の戦争犠牲者を悼むものでありたいと考えます、また、このモニュメントは、二十一世紀に向けた都民の平和への願いを世界に訴えるものとする必要があり、平和を祈念する像や塔などが考えられます、と記載されております。

 そこでお伺いいたします。このように多くの目的を持ったモニュメントを制作するのではなく、東京都の平和のモニュメントは、東京空襲犠牲者を追悼するものとし、そのモニュメントは地上に建立すべきと考えますが、いかがでしょうか。

 次に、平和祈念館の建設が予定されている都立横網町公園の樹木についてでございます。樹齢七十年から八十年という貴重なものもあり、建設予定区域内には百五十本程度の樹木があり、建設工事の際には、その三分の一程度は移植が必要とされております。

 そこで質問します。樹木についてはどのような保全対策を講ずるのか、見解を伺います。」

出典 東京都議会 会議録
平成10年_第1回定例会(第3号) 本文 1998-03-04(33)


[説明]

都議会意見1の説明を参照